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理系倫理実践報告 (2003)

この文章は、2003年度、長山徹が立命館高校で行った授業「理系倫理」の、本人による記録であり、立命館高校職員のMLに流された。

長山です。昨年度は生徒へのアンケート調査の分析について長々とメールでの連載を行いました。今年は授業実践報告をやることにしました。なるべく一通のメールが長くならないように気をつけますが、二回分読まないと誤解を生じる切り方になるときがあるかも知れません。

先日ちょっとしたことで分かったのですが、スーパーサイエンスプログラムだけが浮き上がって、法学とか、ヒューマンサイエンスとか(要するにあまり金のかからないプログラム)の他のプログラムがプログラムとして多くの先生方に認識されていないようです。これらはみんな社会科だけで担っているのでその所為もあるのかもしれませんが、ただ社会科がやっていても「理系倫理」だけはスパーサイエンスプログラムの一つなのですが、そのことについては認知されているのでしょうか?
そして誰に聞いても「理系倫理」が一番「何やってんのか分からない」科目のようで、こうした点から今年は「理系倫理」の実践報告を書くことにしました。そしてその中でも一番良く分からない?「ウエストの細い女性はもてる」という四月、授業の導入期に行っている「誤解されやすい」授業について報告しようと思います。

この授業では科学方法論と自然科学的な現実問題の切開に挑むことが中心です。その中で普通の技術者が陥る、全方向的視野を欠如することに依る「思いがけない結果」を避ける力を付けることをめざしています。普通に「倫理的問題」といわれる臓器移植や出生前判定といった問題より(それが重要であることは否定しませんが第一にそれが社会科学的問題であること、第二には全ての技術者が直面する問題であるとは言えず、専門教育の中でそれが問題となったときに取り上げればよいという判断をしています)、いかなる技術者であれ直面する問題に対する応能力を付けることが中等教育における課題として適切であると考えています。以前は現実問題の検討を中心としていますが、最近は軸が方法論に移っています。それは以下をお読みいただければ分
かると思いますが、生徒自体の変化によるものです。

長山です。

論文の内容(当面の授業に使用するこの論文の前半部分を別メールで送ります)
この短いエッセーは『遺伝』1999年5月号に掲載された。わずか2頁の短いエッセーだが理系の倫理最初の入門編テキストとして格好の材料である。このエッセーは1990年代の半ばまで議論され、公に正当だとされてきた「ウエストの細い女性がもてるのは、性選択によるものである」という議論(A論)に対する反論(B論)をまとめたものである。その構成は、最初の四分の一が旧来の議論(A論)のまとめ、残りがその反論(B論)のまとめになっている。
A論のまとめにはその節の根拠となった様々な調査が文献注で載せられており、反論者が意図的に編集したものではないので、完成した旧説のまとめとしてそのまま抜刷りにして配布できる。

このエッセーを使用して私が扱ったテーマは基本的に
1.理論科学と経験科学の相違  2.個人研究と集団的検討  3.仮説と検証
4.印象から判断への検討プロセス  5.反論の方法  6.分類の方法
であり、加えて生徒自身の中にある「ウエストの細い女性はもてる」という印象を検討することで「個人の思いこみがいかに『科学的な判断』に影響するか」ということである。当然この最後の項目がなければこの授業は社会科の科目「理系倫理」のそれにはならず、理科の授業になってしまうかもしれない。

旧来の見解によれば
1 ウエストの細い女性が男性に好まれることは調査の結果立証されている
2 ウエストの太い女性は医学的に病気にかかりやすい
3 ウエストの細い女性は出産能力が高い

授業の前半ではまずこのA論だけを配布して作業を行う。

A論で扱うこと
分類法と経験科学の立証法
分類を扱うのは経験科学の検証過程を理解させるためである。生徒は「全体的判断」からなかなか脱出することができない。個々の要素を個別に検討して総合的判断にいたるプロセスを扱う、その前半部=分類をまず行う。

「ウエストのくびれた女性がもてるのはなぜ?」(小田 亮、「遺伝」1999年5月号)

キムタクが「くびれ!」と叫びつつトルソに抱きつく某エステのTV−CMをごらんになった方は多いだろう。ウエストがきゅっと締まってヒップが大きい女性はこの国でも理想とされているようだ。「くびれ」の度合いを表す指数として、ウエスト−ヒップ比(waist-to-hip ratio)というものがある。ウエストサイズをヒップサイズで割った値であり、これが小さいほど「くびれ」の度合いが大きいと言える。さて、欧米では主に水着の女性の絵を使って、どのようなウエスト−ヒップ比が男性に好まれるか調べた実験が多くある。その結果、やはりウエスト−ヒップ比が小さい女性の方がより好まれるという結果が得られている 。
実は、ウエスト−ヒップ比は女性の生物学的なコンディションと関係している。先進国では、健康な女性はエストロゲンというホルモンの血中濃度が高く、その結果ウエストよりもヒップに脂肪が蓄積され、「くびれ」の度合いが大きくなる。一方、ウエスト−ヒップ比の大きな女性つまり「ずん胴」の女性は、遅発型糖尿病や不妊症などの健康障害に悩まされる率が高い 。「くびれ」は女性の健康状態を表しているというわけだ。さらに、「くびれ」の度合いが繁殖力と関係しているというデータもある 。このことから、ウエストのくびれた女性への好みは性選択によって形成されているのではないか・・・。

長山です。

 さて、今日から理系倫理の最初の授業が始まるわけですが、一番最初は「人間の意識が個人の好みによるのではなく『生物学的な決定』による」ということを検討します。遺伝という雑誌に載った論文を検討していきますが、「ウエストの細い女性がもてる」理由を記述しています。ではまずアンケートですが男性のみ、ウエストの細い女性が好きな人正直に手をあげなさい。

という具合に始まるのですが、
 ウエストの細い女性が好きな高3 は毎年ほぼ75%−80%程度います。ところが驚くべきことに女子生徒に「男性はウエストの細い女性が好きだ」と思うかどうか聞くと、これがほとんど100%です。次に男子生徒に「ウエストの細い女性が好き」というのは自分の個人的な好みかどうか質問すると上記の75%−80%のそのまた80%程度がYesと答えます。残りの20%は自分が何らかの影響を受けてそうなっていると判断しているようです。
そこで次のように指摘します。

 今ここでとったアンケートの結果自体が「ウエストの細い女性が好き」というのは個人的な好みではなく、一般的な傾向であるということを示しているのです。つまりこのアンケート結果を見た後で、それでも個人的な好みだと主張する人は「非科学的な人」だということになりますね。ではどの様に個人的な好みではないのか、短い論文を検討することにしましょう。

ここで始めて昨日メールした「A論」を配布します。

作業1 :「文章中の、この議論が根拠としていることを全て箇条書きであげなさい」

 箇条書きにさせる意味は個々の論点あるいはデータを切り離して、後でそれぞれ別個に検討させるためである。生徒は全称的判断を行い、それがかれらの「印象」を「判断」だと曲解していることを認識させ、それを区別させるためである。
作業が終わってから「いくつあげられた?」と質問すると千差万別であることが分かって面白い。自分のそれと異なる数のものが多く、自分が挙げられた数が多数派でもない(大体生徒の過半数を占める「数」がなくてんでんばらばらであることが多い)ことに驚く。数が分かれるのは第一に「きむたくのコマーシャル」など理論上の根拠としてではなく、現象の紹介をあげてしまうものがいることにもよるが、つなげられて記述されているものをどのように扱うかという点でも相違する。

 個人での作業が終わったら、グループで討論してグループの見解をまとめる作業に入る。( 個人作業は必ず相談無しに自分一人で行うことと指示する。最初から討論というやり方は例外的にしか採らない。他の人の意見を先に聞いてしまうと、そうでなければ自分の中に発想として生まれ得たものが聴いたことにひきずられて出てこなくなることが多いからだ。自分でまず考えられるだけのことは考えた上でグループ検討に入る)
 個人作業→グループ検討というスタイルはこの後も一年間を通じて継続し、そうすることが普通であるようにする。グループ討論には最小限しか介入しない。グループ検討の方法として指示するのは次のような方法である。

0 自分があげたものの下にラインを引いて、自分があげなかったもので他のものがあげ、一致してOKとなったものはそのラインの下に書く。(こうすることでラインの上が検討された自分の見解で、下が検討によって他者の力を借りたものと区別される)
1 一人一人自分のあげたものを発表して、全員で検討する。
2 その結果全員が妥当だと思われたら丸印、不十分で補足が必要なものには三角を付けた上で補う。全員が誤りだと一致したものには×印を付ける。

 検討の途中で根拠とならないものを指示する。この場合には「きむたく」つまりそれはこの理論の「結果」現れる「現象」であるが、論文がこの問題についての説明のために現象をあげ、その上でそのことについての科学的根拠を明らかにするという手法を採っていることを説明する。もう一つは「ウエストの細い女性がこの国でも理想とされている」という点であり、これは根拠に基づくことにはなるが「意見」にすぎないと指摘する。この段階で「意見」と「根拠(データ)」の区別が重要なことを予想させておく。

 生徒はこの段階ではまだエッセイの内容をきちんと理解しているわけではない。とりわけ「性選択の結果」の意味が分からないが、そのためかえって方法論に中心を置いて自覚を促すことができる。

 こうして集団的検討によって自分の力を越える発想と広がりを持つことができることを常時実感できるようにしている。

 集団的検討が終わったところで全グループの結論を出させ、突き合わせの作業を通常は行うが、このテーマではそれは行わないでグループ内の検討にとどめておく。つまり手法として生徒の作業を先行させ、その中で出てきた問題点指摘し、修正して行くことで学習が進むようにしている。逆に言えば最初にマニュアルを与えてそれに従ってやらせるという形態をとらない。作業手順は示す(それすらなかったらなにもできない)が、それによって出てきた誤りを指摘する=誤りの修正によって自分の方法を確立させるという手法を採っている。

「その4」で紹介した最初の作業について、実際の生徒の作業を紹介しましょう。取り上げるのは余りできの良いとは言えなかった生徒の作業です。複数人の作業を取り上げるより一人の生徒の作業を連続してみてもらった方がよいと思うので、これ以降作業1から6で紹介するのは一人の生徒のものです。

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┃■作業1 文章中の、この議論が根拠としていることを全て箇条書きであげなさい
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
△Aウエストヒップ比が小さい女性の方がより男性から好まれる結果がある
△Bウエストヒップ比の大きい(ずん胴)の女性は遅発型糖尿病や不妊病などの健康障害に悩まされる
○C「くびれ」の度合いが大きいほど繁殖力がある
○D健康な女性はエストロゲンというホルモンの血中濃度が高く、その結果ウエストよりもヒップに脂肪が蓄積されていて、「くびれ」の度合いが大きくなる
○E「くびれ」は女性の健康状態を表していて、「くびれ」の度合いが大きいほど健康的である

作業1のグループ検討による訂正二ヶ所
A欧米ではウエストヒップ比が小さい女性の方がより男性から好まれる結果がある
Bウエストヒップ比の大きい(ずん胴)の女性は遅発型糖尿病や不妊病などの健康障害が高い

作業1のグループ検討によって付け加えたもの一つ
Fウエストヒップ比はウエストサイズをヒップサイズで割った値で、これが小さいと「くびれ」の度合いが大きい

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ご覧のように同語反復的なものが別項目として挙げられたり、用語の説明でしかないものが「議論の根拠」として、しかもグループでの検討をくぐって付加されたりしている。

作業2 次にはまた個人作業に戻り、グループ検討によって出された「根拠」について自分の意見を書く。実はそれには専門的な知識が必要とされるのでこのレベルでその作業をすることは非常に難しいのだが、後の作業のためにともかくかけるだけの見解を書かせておく。

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃■作業2 ○印が付いた根拠に自分の意見を書く
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Aウエストヒップ比が小さい人は確かにスタイルも良く見えるし、男性もそういう女性の方が好きなのかも。
Bウエストヒップ比の違いによって、病気になりやすいなんてこともあるんだな。
Cこれは前に聞いたことがある。ウエストヒップ比にかぎらずおしりが大きいって聞いたが。
Dヒップに脂肪が蓄積されるとたしかにウエストヒップ比が小さくなるから、健康なのだろうか。
Eくびれ一つで健康かどうかが分かるなんてすごいな。
Fウエストヒップ比=ウエスト/ヒップなんだ。

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長山です。

大変だった論述試験の採点が終わり、たまっていた仕事をこなし、やっと戻って来ました.連載?再開です。

作業3 上で書いた個々の根拠についての自分の見解を踏まえて、総括的にこの問題についての判断を下す。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃■作業3 総合的に判断して自分の意見を書く
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ウエストヒップ比はあくまでも女性の健康状態を表すものであり、これが男性から好まれるかどうかとつなげるのはふさわしくないだろう。女性への好みはさまざまであるだろうし、ただウエストヒップ比が小さい女性はスタイル良く見えるため、に実験結果で好まれていただけであるだろう。また欧米の結果であり、他の国では行っていない。これは文化の違いによっても異なってくるはずであろう。
 この文章はウエストヒップ比と女性の健康状態を述べるためであり、男性の好みに関しては関係がないと思う。そのため題名も断定されることができないはずだ。
 したがってこの文章は、エストヒップ比と女性の健康状態についてのみのべるべきだ。
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この見解は卓見です。極めて少数の生徒がこの様な視点を確保していました。しかし、生物学的決定など、この文章の解説を聞いても同様の視点をもてるかどうかです。

ここで科学方法論の全体像を講義する。

最初の「全体的判断」

 ある問題が提起されたとき、普通はそこで「判断」していると思うでしょ。長山って嫌な奴だとか、面白い奴だとか、訳の分からない奴だとか、いろいろあると思う。それは「全体的な判断」というか「統一的な判断」というか、全部まとめて「長山は」という判断だよね。でもそれは実は「判断」ではなくて「印象」にすぎない。誰でも最初はそういう「印象」を持つことから認識は始まる。しかし「印象」は主体的な構成ではない。自分の印象だと思っているけど、実は相手から与えられたものにすぎない。それは相手やその事象から自分がプレスされたものにすぎない。だから英語でも印象のことをimpressionと言います。impressionはstampと同義です。だからまずその全体像から、細かく細部にわたって分類していく必要があるのね。

分析の方法とその意味

分類は分析なのです。だから可能な限り「細かく」分析は行うこと。ただし君たちの分類では平面的だった。1.2.3.4という具合に分類していたけど、実際にはそうではない。ここには君たちの分類に依れば4ないし5つの項目がある。問題になったのは「健康な女性はエストロゲンというホルモンの血中濃度が高く、その結果ウエストよりもヒップに脂肪が蓄積され、『くびれ』の度合いが大きくなる」という点をどう扱うかで意見が割れていたことだね。これは一つだという意見と、二つに分けるという意見があった。

この点については基本的に
健康な女性は 1 エストロゲンの血中濃度が高い 2 その結果として 3 ヒップに脂肪
という具合で、1と3が因果的な関係の中で出されているわけだから、一つとしても良いのだけど、でも「反論=検証」の点から見て「1→3」とした上でこれも二つに分ける方がよい。つまり実際の実験や調査でこのことを検証しようとすれば1と3とは別々の検証作業になる。一つ目の検証は「健康な女性はエストロゲンの血中濃度が高いのか?」、二つ目が「エストロゲンの血中濃度が高い女性はヒップに脂肪がつくのか?
」というもので、この二つはそれぞれ別々に行われるでしょ。
 その別々の検証でどちらか一つでも誤りだったら双方が根拠にならないということになる。こうした検証作業を考慮して、分類は「可能な限り細かく行う」。そしてその基準は一つの項目につき検証の作業が一つかどうかという点で判断するわけです。

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 次に必要なのは項目間のの分類です。今までの作業では全部並列にABCDと書く項
目を並べたけど、これでは正確ではない。
 正確でないから検討の時問題になったのは
  「ウエストの細い女性は健康状態がよい」と
  それ以外の様々な細かいこととのどちらを採用するかということだったが、君たち自身が前者は後者のまとめになっていると言っていた。おもしろいことに「細かく分けなさい」という指示なのにに、あるグループでは「これとこれはこっちがもっとまとめられているから」という理由で「まとめ」の方に○をつけているのね。つまり論点は「まとめ」か「個々の具体的な事実」かということだったわけです。どっちが正しいの?これはねどっちも正しいのだけど、これではどっちも正しくないのです。つまり大事なのは細かく分けていったものの分け方なのですが、だから前の指示からいえば、「まとめ」を○にした人は誤りだけど、しかし彼らは重要な点を指摘している。それは項目分類は平面的ではなく、「大項目」−「小項目」、そして時には「中項目」という具合になるということなんだ。
この問題については、だから次のような3ないし6項目の分類になる。

大項目      小項目
A調査結果    水着の女性の絵を使った実験でウエストの細い女性のほうがより好ま 
        れるという結果が得られている

Bくびれは女性の健康状態を示す

        1 健康な女性はエストロゲンというホルモンの血中濃度が高い
        2 その結果ウエストよりもヒップに脂肪が蓄積され、『くびれ』の度
        合いが大きくなる
        3 ウエストの太い女性は遅発型糖尿病になる率が高い

Cくびれは繁殖力と関係する
        1 ウエストの太い女性は不妊症になる率が高い
        2 くびれが大きいと繁殖力が高い

 ここで注意しなければならないことはAの場合には小項目が実は一つしかないので本来の意味での「大項目」にはならないが、BCと並ぶものなので(BCのあるいは他のものの下位項目ではないので)大項目の位置に置く。つまり大項目というのは常にその下位に幾つかの小項目を含み、その「まとめ」になっているということです。
 逆に言うとこのことは「発想法」にとって重要な内容を含んでいます。つまり我々が最初に思いつくのは大体「大項目」に相当する内容なのです。だから何か問題が提起され、思いついた仮説があったらそれを「大項目」だと思って、その下位項目を探すことです。そうするとより広く深く考えられるようになるでしょ。

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こうして例えば「長山」について分類すれば「鼻がでかい」とか「関東弁だ(そんなものはねーよ、といっちまいたいが)」とか「態度がでかい」とか「顔が悪い」とか「こういうふうにしゃべったら、こういう対応をした」とか様々に「長山」が分かれるわけです。
 そして次にその一つ一つを評価してきました。「こういうふうにしゃべったら、こういう対応をした」ことは○だがそれ以外は全部×だとかいう人もいるでしょ。分類してその一つ一つの項目を別々に評価する、ここまでの過程を「分析」と言います。

分析で終わったら矛盾する結論で終わったことになります。「○もあれば×もある」で終わるのは結局「曖昧」だといわれるだけです。何が足らないのかといえばその、別々の評価を関係づけること、つまり「総合」です。

 すべての評価を一つにまとめると「長山は直接つきあうには言葉遣いを初め様々な障害があるが〜の問題について話をするには適任である」といった評価になります。そうすると「では長山に直接話しにゆくのはやめてメールで会話することにしよう」といった行動指針・これからそれに対して何をするかということまででてきます。しかもそれはやはり長山に関する全体的判断です。

 こうして最初の一色に塗りつぶされた印象から、様々な要素に対する複合的な評価を含んだ総合的な判断が成り立つことになります。
 だからドイツ語では判断をUrteilen といいます。Ur は原始・原子といった場合の原に当たる言葉で「根元的な」という意味です。teilen は「分割する」という動詞です。併せてドイツ人は「その問題についてこういう判断を持っている」という場合に、「その問題について根元的に分割した上で評価をした」と言っているのです。逆に言えば第一印象とか、その問題を分析もしないで自分の態度まで決めてしまっているのは、とってもあさはかだということなのです。

 いいですね、最初の印象を判断だと思いこまないことで以下のように分析すること
 その問題の要素を可能な限り細かく分類すること
 分類した項目のそれぞれを別々に評価すること
 その評価を総合して、最終的な判断とすること

 それからこの授業では「発想法」も取り上げて行きます。その点で
 最初に思いつくことは「大項目」にあたることである
 だから次にその項目の中項目や小項目にあたることが何なのか考えて行くこと
 そうしないで思いついた「大項目」から「次は何?」と考えるとその「大項目」の中にあるさまざまなことに逢着しないで別のことに移ってしまう。

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 さて、以上のように分割=分析無しには判断は成り立たないということです。ただし、こうして主体的に立てられて判断は再び全体的な判断ですね。全体を総合した判断だけど最初の印象と違って文章で説明できるし、分類過程自体をその中に含んだら、長い文章になるよね。なら論文が書けそうですね。

 もう一つこの分類の際に説明することがある。
 それは「データ」と脚注(雑誌発表)の話です。

 この授業は年間で最初の授業にあたるため生徒は(その後は毎時間持ってくることになる)レポート用紙を持ってきていないので、Aを印刷した後ろに罫線をひき、レポート用紙代わりにしている。で、本文を印刷するだけで脚注は含まない。その脚注についての説明をする。それは 1 文章にはデータがないが全て脚注がある。つまりここにあげた調査や分析結果は「意見」ではなく、きちんと実証されている。その実証については先行研究があるので脚注で文献名をあげ、その文献を見れば誰が何時どのような実験環境で行ったことなのか分かり、同時にその記述に基づいて再実験が行えるようにしている。経験科学におけるデータ重視とはこういうことである。しかも雑誌に発表するというのは実は通常は印税が入るのではなく、逆にお金を払って発表の場をもらう。投稿論文を検討する委員会が存在し、そこがOKを出したもののみが雑誌への掲載を許される。したがって雑誌の権威はその委員会の権威であり、どの雑誌に載るのかということがその論文の信用性にも関わる。因みに最も権威の高い自然科学雑誌はイギリスのNatureである。

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作業4
作業2で書いた自分の意見に反論を書きなさい。

この作業はひどく不評です。曰く「自分のまともに書いた意見に反論なんてできない」。そうそうそれでいいのです。それが確認できたところで作業を中断して説明です。

仮説の意味 講義
 君たちはこれまでの11年(12年の人もいるけど)の教育の結果、質問されたら・疑問が提出されたらすぐに「解答」を出すように訓練されてきたのね。その典型が単純解答型ペーパーテストだけど、日常の授業でもそうでしょ、「〜は何?〜君」と言われたらすぐに解答を出す。そしてその「解答」なるものの出来不出来が君たちの人格に関わる、できたら偉い?できなかったらダメなもんになるその過程で、君たちはその解答に「人格をかける」ことになった。
 昔はそんなでもなかったのだけど、現在の大学二回生、2002年3月卒業の学年からその傾向が顕著になってきた。二年前の現社の授業覚えてる?あれっ君たちの学年はやってないかな、「貿易収支」の授業。ほとんど全員が「黒字がよい」として意見が分かれず、生徒間討論が成り立たないので、「黒字は良くない」を教員が代表して、珍しく教員対生徒で議論した授業。あの授業で僕らの反論に「傷ついてしまって」、それ以降意見を言えなくなった生徒が出てきたのです。知っているとおり現社の授業は「教員の意見は言いません」ということを明言している授業だし、「教員のいうことを信用してはならない」ということも担当の先生全員がプリントで明らかにしている授業だよね。だから僕、長山という人格と生徒が人格として対決したのでは全然無いことは明らかなのに、それでも人格的に傷ついてしまったわけです。
 だから今後は大学に行っても「即解答」というのは止めて下さい。大体それはこれまでみんなでやってきて、その意味も分かったと思うけれど、グループ討論の対極にあるものでしょ。これからは「仮説」を立てることにして下さい。それは仮説なのだから討論の材料になるし、これから検証されて正しさも誤りも明らかになるのが当然です。しかも「解答」の場合にはAに対するAバー(Aの逆)は提起できません、というより思いつかないでしょ。それが自分の発想の豊かさ自体を制限するものなのです。仮説は仮説ですから自分が出す全ての仮説が一貫したものである必要はありません。仮説間に整合性がある必要はないのです。仮説は仮説ですからそれに反論されても、それは別に自分でもやろうとしていたことですから傷つく必要もありません。そして大学では仮説を出せるということが重要な能力です。仮説−検証過程こそ「研究」と呼ばれるものなのですから、仮説を出せなかったら他の人の仕事(検証)の下請けをやるしかありません。

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 ここで初めてエッセイの全文を配布し説明します(この論文の後半部分=B論を別メールで送ります)。
 昔でしたら生徒の顔色が変わり「やられた」とか「先生そりゃ無いよ」とか「裏切られた・悔しい」思いを表明する生徒がたくさんいましたが、今年は誰一人そういう反応をしませんでした。坦々と受け取っているようでどういうことかと思いましたが、書かれたものを見て行くとそう感じた生徒も何人かはいたようです。しかし本当に自己防御性が高まって、自己を表現しなくなりましたね。

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「ウエストのくびれた女性がもてるのはなぜ?」(小田 亮、「遺伝」1999年5月号)

 キムタクが「くびれ!」と叫びつつトルソに抱きつく某エステのTV−CMをごらんになった方は多いだろう。ウエストがきゅっと締まってヒップが大きい女性はこの国でも理想とされているようだ。「くびれ」の度合いを表す指数として、ウエスト−ヒップ比(waist-to-hip ratio)というものがある。ウエストサイズをヒップサイズで割った値であり、これが小さいほど「くびれ」の度合いが大きいと言える。さて、欧米では主に水着の女性の絵を使って、どのようなウエスト−ヒップ比が男性に好まれるか調べた実験が多くある。その結果、やはりウエスト−ヒップ比が小さい女性の方がより好まれるという結果が得られている 。
 実は、ウエスト−ヒップ比は女性の生物学的なコンディションと関係している。先進国では、健康な女性はエストロゲンというホルモンの血中濃度が高く、その結果ウエストよりもヒップに脂肪が蓄積され、「くびれ」の度合いが大きくなる。一方、ウエスト−ヒップ比の大きな女性つまり「ずん胴」の女性は、遅発型糖尿病や不妊症などの健康障害に悩まされる率が高い 。「くびれ」は女性の健康状態を表しているというわけだ。さらに、「くびれ」の度合いが繁殖力と関係しているというデータもある 。このことから、ウエストのくびれた女性への好みは性選択によって形成されているのではないかということが盛んに主張されてきた。

(以下がB論)
 しかし、この手の異性に対する好みの実験のほとんどは、欧米の大学生を対象に行われている。「くびれ」への好みは普遍的なものであるかのようにいわれているが、実は文化の違いを考察した研究は少ないのだ。また、たとえ欧米以外のところで調査をしたとしても、様々な情報が世界を飛び回っている今日、欧米文化の影響を受けていない集団を探すのは難しい。昨年12月26日に発行された科学雑誌『Nature』に掲載された記事は、まさにこの問題を取り上げたものだった 。ロンドン大学インペリアル・カレッジのユウとカリフォルニア大学バークレー校のシェパード( Douglas, W. Yu and Glenn, H. Shepard Jr.)は、欧米文化の影響をまったくといっていいほど受けていない人々を対象として好みの実験を行った。それは南米ペルーの奥地に住む、Matsigenka 族という部族である。彼らが入る地域には科学者と許可を得た訪問者しか立ち入ることができず、外部との接触はほとんどない。そこでのウエスト−ヒップ比の好みについての実験結果は、欧米におけるものとは大きく異なっていた。Matsigenka 族のなかでも奥地に住むYomybato 村の19人の男性は、魅力、健康さ、好みのすべての点において、太さとウエスト−ヒップ比の異なる六つの絵の中でも太めでかつウエスト−ヒップ比の高い女性の絵に最も高い順位をつけた。同じ太さの中で比べても、高いウエスト−ヒップ比の女性は低い女性よりも有意に高い順位をつけられていた。彼らは太めでずんどうの女性を好むのだ。
 ユウとシェパードは欧米文化の影響を調べるために、同じMatsigenka 族のなかでもより西洋化されていると考えられる、Yomybato 村よりもずっと開けたところにいるShipetiari という集団と、それよりもさらに西洋化されている、Alto Madre という他の部族との混合集団において同様の実験を行ってみた。もちろん対象の人数や年齢はほぼ同じにしてある。すると、Shipetiari の男性はYomybato の男性と同じようにウエスト−ヒップ比の高い女性を健康であるとしたが、魅力と配偶者としての好みに関してはウエスト−ヒップ比の低い女性に高い順位をつけた。これがAlto Madreの男性になると、魅力、健康さ、好みのすべてにおいてウエスト−ヒップ比の小さな女性を選ぶ、つまり合衆国の男性と変わらない傾向になるのである。欧米文化の影響の度合いによって好みが変化していることが示唆されたのだ。進化心理学*においては、ヒトには進化によって形成された普遍的な認知特性があるということが盛んに述べられているが、その普遍性というのは実は単に西洋的な価値観であるという危険性を、この研究は示したといえる。
 先に述べたように、女性のどのような身体的特徴が男性に好まれるのかという研究は結構盛んに行われてきたのだが、そもそも、男性は本当に女性の身体的な特徴を基準にして配偶者の選択を行ってきたのだろうか。いわゆる伝統的な人間社会には、配偶に関する社会的な規則というものがある。多くの異性の中から自由に配偶者を選ぶというのは、ヒトの歴史の中ではごく最近になって行われるようになったことなのではないだろうか、また、言語をもち知能の高いヒトは、身体的な特徴を基準にしなくてももっと直接的に相手の配偶者としての価値を評価することができる。動物行動のアナロジーでヒトの行動を考えるという視点は様々な発見をもたらしてくれるが、あまり安易なアナロジーは誤った結果を導いてしまうことになりかねない。
 さて、ではヒトの認知や行動はまったく文化的なもので、選択や適応といったことは関係していないのだろうか。決してそうではない。最近では一見単純に見えるヒト以外の動物の行動についても、常に決まり切った行動パターンが見られるのではなく、いくつかの選択肢があり、周囲の状況変化に応じて使い分けているということが明らかになってきている。そもそも普遍的ではないからといって生物学的な基礎がないとはいえないのだ。これまでの進化心理学はヒトという種の普遍性とその適応意義を探すことに熱心であったが、最近では徐々にではあるが、生物学的な基礎を踏まえたうえで文化差、集団差も考慮に入れた研究へと向かっている。日本においては進化心理学はまだまだマイナーな学問であるが、これまでのように欧米ばかりが中心となるのではなく、日本も含めて、さまざまな文化、社会をもった集団からの研究を期待したい。
——————————–
* 人間の基本的な心理メカニズムが、その進化の途上において直面してきたさまざまな適応的な問題を解決するようにデザインされていることを前提にした心理学のこと。認知心理科学や社会科学と進化生物学の学際的分野であるといえる。進化心理学者が多くを占める学会として”Human Behavior and Evolution Society”、その学会誌として”Evolution and Human Behavior” がある。

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ここからは現在の批判を踏まえて、ABを相互に検討して行く作業に入ります。

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┃■作業5 従来の見解の何にどう反論しているのか(反論の仕方の検討)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
      A                  B
欧米ではウエストヒップ比がⓥⓤこの実験は欧米の大学生を中心としたものであって、
小さい女性の方が男性に好ま  文化の違いうをあまり考察されていないく、その結
れる。            果、欧米の文化の影響をまったく受けていない人々
               ではウエストヒップ比が大きい女性が好まれる。だ
               からウエストヒップ比による男性の好みは文化によ
               りさまざまである。

先進国では、健康な女性はエⓥⓤShipetiariやYomybatoの男性はウエストヒップ比
ストロゲンというホルモンの  の高い女性を健康とした。
血中濃度が高く、ヒップに脂
肪が蓄積され、「くびれ」の
度合いが大きくなる。

ウエストヒップ比の大きい女ⓥⓤ言語を持ったヒトは身体的な特徴を基準にしなくて
性は遅発型糖尿病の健康障害  も、もっと直接的に相手の配偶者としての価値を評
に悩まされる率が高い。    価することができる。
ウエストヒップ比の大きい女ⓥⓤ同上
性は繁殖力が低く、不妊症に
なりやすい。

ウエストのくびれた女性へのⓥⓤ欧米文化の影響の度合いによって好みが変化してい
好みは性選択によって形成さ  る。伝統的な人間社会には配偶に関する社会的な規
れたのではないか。      則というものがある。

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 既にあげた3ないし6分類は、実は生徒には分類の仕方を説明はしても、実際にどういう分類になるのかは明示しないまま置いてあります。ですからここで再度分類ができるかどうかチェックすることになるのです。レポートを左右半分ずつに区切り、左にAの根拠そして右にそれに対する反論をあげさせます。

17

作業5の本来の解答はこうなります。

      A                  B
欧米で水着の女性の絵を使った  欧米文化の影響を受けていない南米ペルーの
実験でウエスト−ヒップ比が小  Matsigenka 族のなかでも奥地に住むYomybato 村の
さい女性の方がより好まれると  19人の男性は、魅力、健康さ、好みのすべての点に
いう結果が得られている   ⓥⓤおいて、太さとウエスト−ヒップ比の異なる六つの
                絵の中でも太めでかつウエスト−ヒップ比の高い女
                性の絵に最も高い順位をつけ、
                同じ太さの中で比べても、高いウエスト−ヒップ比
                の女性は低い女性よりも有意に高い順位をつけられ
                ていた。
                より西洋化されているShipetiariの男性はウエスト
                −ヒップ比の高い女性を健康であるとしたが、
                魅力と配偶者としての好みに関してはウエスト−
                ヒップ比の低い女性に高い順位をつけた。
                Alto Madreの男性は、魅力、健康さ、好みのすべて
                においてウエスト−ヒップ比の小さな女性を選んだ。
健康な女性はエストロゲンとい
うホルモンの血中濃度が高く、
ウエストよりもヒップに脂肪が
蓄積されて「くびれ」の度合い
が大きくなる        ⓥⓤ

ウエストヒップ比の大きい女性
は遅発型糖尿病の健康障害に悩  
まされる率が高い      ⓥⓤ

ウエストヒップ比の大きい女性
は不妊症に悩まされる率が高い
なりやすい         ⓥⓤ

「くびれ」の度合いが大きい  
と繁殖力が大きい      ⓥⓤ

ウエストのくびれた女性への好  一見単純に見えるヒト以外の動物の行動について
みは性選択によって形成されたⓥⓤも、常に決まり切った行動パターンが見られるの
                ではなく、いくつかの選択肢があり、周囲の状況
                変化に応じて使い分けているということが明らか
                になってきている。

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 そうすると全てのデータに反論していないことが分かります。反論の中心はAの大項目「調査結果」に向けられます。つまり旧来の見解は欧米のデータを普遍的なデータとして扱うという致命的な欠点を持っているわけで、その点に対する反データさえあげれば後のデータがどう出ようが、例え健康状態のデータが正しくとも、性選択の結果ではなく文化の問題であり、したがって社会科学的問題であるということになるからです。それを確認した上で、経験科学における反論はデータによって行うことを説明します。

反論はデータで
 例えば似たような問題に「身体的性と精神的性の不適合」、いわゆる「性同一性障害」の問題があります。君たちは昨年度の性教育で習ったからもう説明する必要もないでしょうが、一応要点を押さえておきましょうね。

 僕は「性同一性障害」という言葉は本人がその身体−精神の不一致が問題だと感じと時に自らそういえば良い問題で、両者の不適合がそのまま障害だとは考えていません。本人が身体は女だが精神は男だと納得しているならそれでよいわけで、それを障害だとする必要はないわけです。

 胎児の段階で女だったのがその一部がホルモンシャワーを浴びて男になって行く、性器もその過程で変化するし女のものから男のものになるわけです。だから男女二分類自体が文化的なもので、そのあいだはデジタル的に分離しているのではなくアナログ的な移行過程としてあるのだから、それだけの様々な女から男への変異の途中形態が身体的にも精神的にもあるのが当然です。つまり全ての男が女らしさとは異なるただ一つ共通の「男らしさ」を持っているのではなく、女から「女らしい男」や「男らしい女」を経て男まで、様々なバリエーションが我々人間の中にあるのです。

 そのバリエーションの中で性同一性障害の人が唯一問題にされてきたわけではなく、戦前には男らしくない男もその逆も、完全二分法に適合させるために問題とされてきたのですが、性同一性障害の人々が(極端な形式であるのであるいは「性転換」を必要とするので)問題として登場してきたわけです。東京の区議会で「障碍者」が当選するなど次第に認められるようになってきました。しかし、これも以前は男と女の二分法が自然科学的に正しいのだと思われていたことが彼らを排除する根拠になっていたのですが、そもそも自然科学的に当然のことが文化的社会的に認められなかったという例です。

 社会科学屋の場合にはこうした人々の排除に対しては、例えば憲法や近代革命思想を持ち出して、「個人の尊厳」、「全ての人の平等」といった批判を行います。しかし経験科学では、この場合には従って女から全ての男が変異するというデータを示せば(科学的に納得するということのできない人たちを納得させるために社会科学など様々な視点から話をする必要はあるにしても)それで反論終了です。

 このエッセイの中にも意見はあります。例えば「身体的特徴で男性は配偶者選択を行ってきたのか」、つまり連れて歩くのにかっこいいという不純な動機のレベルの問題ではなく、結婚して家庭を作り、子どもを設けて子孫を残すという選択でウエストが細いかどうかで決めたのかいなということ。そしてまた「自由に配偶者を選ぶというのはごく最近ではないか」、つまり性選択の結果ならそれは人類の誕生から始まることだけど、結婚相手を自分で決められない社会ってのがここ最近あった実際の歴史ではないのかい、というものです。これらは面白い見解ですが、経験科学的立場からいえばデータが明示されていないので、無視しておしまいです。もちろん反論されていないAのデータの検討やこれらのことを無視するのではなく研究対象とするのは自由です。ただ、それと反論とは別の話だということです。

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理論科学と経験科学
 基本的に本校の生徒が技術者になることが多いだろうという見込みと、理論家になるとしても具体的な事実問題を取り上げることが後期中等教育、すなわち大学入学前教育における倫理教育としては適切だと考えています。
 このことから自然科学を理論科学と経験科学とに区別し、後者の問題とその方法を中心に扱うことにして、経験科学において重要なのは調査・実験によるデータであって、推論による意見ではないことを徹底して繰り返し扱って行きます。前提として、本校社会科では高校一年生の「現代社会解析」で年間を通じ「一時間の授業につきレポート用紙一枚分の意見を書く」という作業をさせ、高校二年生の「国語表現」では年間を通じて自己表現を中心的課題としているので、この二年間の積み重ねの上に逆の課題、つまり「意見ではなくデータ」という課題を一年間積み重ねることが、生徒の今後の研究活動にとって不可欠な作業だと感じています。
 しかし経験科学の方法だけ扱ったのでは、個々のデータは正しくてもデーター間に矛盾が生じ、パラダイム転換が必要なときにそれが理解できないという事態が生じるので、二学期中間以降に「原子論」・「時間論」というかたちで理論科学とパラダイム転換を扱うことにしています。

性選択について 講義
 作業6以降は次のテーマを行った後に回します。いったんここで時間を置いてこの問題を全体として振り返らせる時間を確保するためと、一つの問題だけでなく次のテーマの中で出てきたことも含めて検討させた方がより良く検討できるだろうと思われるからです。
 そして作業6に入る前にもう一つ説明を行います。実は生徒はまだA論の肝心要の点「性選択」とは何かが概念的には理解できず、印象レベルでしか把握できていません。年によってその説明を作業3の後に行ったり、作業5の後に行ったり、生徒の見解の移り行きを判断して変えていますが、基本的にはB論を見せる前に説明しています。それはB論の前で行った方がA論の正当性を強化することになるからで、納得した上で反論の検討に入る方がよりシビアに両者を検討できるようになるからです。なにせ生徒によってはB論の説明として「これはA論に反論しているのだよ」と言わないとその反論性が認識できない(バラバラの知識を統合することなくバラバラのままで認知する姿勢)ことすらあるのですから。

20

性選択について 講義(以上のようにこの講義は基本的にA論の説明として行います。)

 個人の意識は色々な層に分かれます。個人の意識だから全部それはその人自身の意識だと思ったら大間違いです。
 最初に男の子たちに「ウエストの細い方が」というのは自分の「好み」かどうか尋ねたらYesという答が圧倒的でしたね。でもその時質問した結果自体が個人の好みではなく「一般的な傾向である」ことを示していましたね。その結果女の子たちはほぼ全員が「男性は一般にウエストの細い女性を好む」ものだという方に手を挙げていたわけです。
 だからまずしっかりと確認しなければならないのは 特に君たちの場合、個人の意識が操作されているにもかかわらずその操作過程を意識できないことで自分の個人的な意識だと思っていることが多いことです。何故自分はそう感じるのか説明できない場合にはどれもこれも実は刷り込まれていて、刷り込みを意識できないと思った方がよいかも知れません。

 「個人の好み」に見えるものは、実は「訳の分からないうちに、自分では何故そういう心象を持つのか分からないうちに刷り込まれているもの」なのです。つまり「そう感じるからそうとしか説明できない」と君たちが思っていることは、ほとんど刷り込まれているが刷り込まれていることを意識できないものなのです。説明できないから「自分自身の感覚」と思っているのであって、実は操作されていることに気が付けないものです。こうして刷り込まれたものには、社会科学的に刷り込まれたものと生物学的に刷り込まれたものがあります。
 社会科学的に刷り込まれたものには文化や慣習や習俗などがあります。化粧もそのひとつですね。今年は何色がいいとか、色の流行もそうですね。色の流行はメーカーが集まって来年は何色と決めています。化粧も例えば僕が大学出た頃には「頬紅」が流行っていました。その前の年には頬紅が流行っていたわけではないのですが、資生堂がそういうとそれがきれいだという認識が生まれます。ほっぺたの上の方に茶色の○書いて、何であれをきれいだと思うのか僕には今でも認知不可能ですが、そういう刷り込みが行われて本人があるいは多数の人がそれをきれいだと思わなければきれいにならないわけです。
 この場合には「資生堂が言うから」とか「雑誌に載っているから」とか自分が何故それを好ましい・美しいと思うのか、その根拠が意識されることがあります。それでも自分自らがそれを好ましい・美しいと思っていなければそういう化粧はしないでしょうから「自分の感情」として現れます。

21

性選択について 講義 の続き

 ところがウエストの細い女性を好むのはそういう社会科学的なものでもありません。誰か特定の人や団体から生まれたものではありません。誰かの操作によって生まれたわけではありません。男性にとって決定的なのは第一に女性の繁殖性、第二に健康状態です。男性の問題ではなく、人類の問題として種の保存は第一に必要なものです。出産とか子育ては親の責任だと思いますか?こないだ森さんが子どもを生まない女性には年金によって国から保護される権利はないといった発言をして問題になりましたが、彼が言わなかったことで正しいことは出産が社会全体の維持・保全の活動だという点です。だから生理休暇や出産前後の休暇は女性にのみ認められた権利な訳です。彼が総理大臣まで務めながら決定的に間違っているのは、年金によって国に保護する義務がある=国民の生存権という基本的人権はいかなる国民の義務とも対にならないから基本的人権なのだという点です。国に義務があって、国民には権利があります。基本的人権は無条件に認められなければならないのですから、国民の義務とは関係ありません。話を戻しましょうね。男性の問題ではなく人類全体の問題として繁殖力があり、健康な女性を選ばなければ人類の保全になりません。だから男性が女性を選択するときにはその、人類の生物としての側面が意識できないけれど効いてくるのです。これが「性選択」という意味です。一人一人の君たちは、個人を選択しているのですが、そういうつもりでも実は繁殖のために特定の個人をではなく「性」を選択している。あるいは特定の個人としてではなく男「性として選択」しているということです。
 人間は生物として決められたルールに従っているので、こうしたことを「生物学的決定」ともいいます。これはもちろん意識できません。「俺はそんなことを考えて女性を選んではいないし、そんなことを考えてきれいかどうか判断しているわけでもない」といった反論は無駄です。意識できなくてもそうしてしまうのです。例えば我々は歩くために重力と慣性と、あとは何?何を利用しているの?ん?摩擦力。そうねぇ、摩擦力が無かったら一歩踏み出した途端に?歩けないねぇ。それらにしたがって行動しているのです。
 でもそれを意識しているの?そもそも歩くという行動をするときに「えーとまずは右足だして、よしよし次に左足、おっとここで摩擦を使わないと慣性によって・・・」なんて意識するの?しないでしょ。
 つまり自然科学的に決定されていることを前提として我々は行動しているのだけど、それが意識されない。意識されないのは当たり前で、人類が生まれる以前からの法則なのです。そして普通ヒトは何故歩けるのか考えもしないで歩いている、どうしてウエストの細い女性が好みなのか気が付きもしないで恋してる。そこを何故だろうと問題にして調査研究・実験をして性選択であることを明らかにするという作業を、この間研究者は進めてきたわけです。

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