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はじめからはじめる ─ ジジェク

New Left Review 57 にスラヴォイ・ジジェクによる論文 “How to begin from the beginning” が載っており、楽しく読んだのでまとめ。どうでもいいけど、ジジェクはフランスの Contretemps にもほぼ同じ内容の論文を書いてました。別タイトルで。おぬしも悪よのう。完全に同じ内容ではないから良いんだけどさ。邦訳はもうされているようだ。凄いな。早い。勉強メモ程度のまとめのみ残す。

まとめ

  • 話は1922年のロシア内戦終結後、新経済政策 NEP を採用する際にレーニンが書いた “あるパブリシストの覚書 Notes of a publicist” である。そこでレーニンは、「幻想や落胆に惑わされず、力と柔軟性をもって何度でも最も困難な目標へ向けて’一から始める’事のできるコミュニスト」であることを強調する。途中からではなく、何度も最初から、一から始めなければならない。
  • レーニンのテロルとスターリンの全体主義は、レーニンが「沈黙する自由」を奪わなかったという点で大きく違う。政治的闘争の場から降りた敵にレーニンは銃を向けなかったが、スターリンの体制下では党の思うとおりの主張をすることを余儀なくされた。レーニンに於いて社会は人間たちの闘争の場であったが、スターリンにとって敵は人間ではなく、社会はそれから除外された虫けらと対立していた。この変化は、レーニンの理論に一つの社会的な行為者としての国家が存在しなかったことに起因している。レーニンは自らの鬼子と闘うこととなるが、その過去の過ちを矯正するためには既に遅かったのだ。
  • 共産主義は今、ソビエトの廃墟から始めるのではなく、また最初から始めなければならない。革命は持続的なプロセスではなく、何度も何度も立ち上がる断続的な運動である。Western Marxism にとって、最大の問題は革命主体としてのプロレタリアートの不在であり、精神分析によって階級意識の発展を阻害する無意識的な欲望のメカニズムを暴いたり、第三世界や学生、知識人など別の革命主体を求めようとしてきた。しかし、それは自らの怠惰を正当化するだけのものではなかったか。
  • フクヤマ的な論調を嘲ることは簡単だが、いま、多くはフクヤマ主義者である。人々は、自由民主主義的資本主義が結局のところ最良の社会であり、それをより公正なものにすることに心血を注いでいる。しかし、これが真ならば、アラン・バディウのように共産主義仮説 communist hypothesis を強調する意味はなんなのか?
  • 共産主義仮説を要請する歴史的現実における対立 antagonism は確かに存在する。本当の問題は一つしかない。『グローバル資本主義はその無限の再生産を防ぐほど強い対立を内包するのか』。答えはイエスであり、それは社会的アパルトヘイトの新しい形、包摂されるものと排除されるものの対立である。他の対立─環境破壊、知的財産と私有財産の対立性、遺伝子操作のような新技術に関連する倫理的問題─は重要ではあるが、先に挙げたものとはそのコモンズとの関わりに於いて異質のものである。
  • コモンズとはその私有化自体が暴力的行為であるような共有の何かである。私有化が断行されるようならば、それは必要ならば暴力でもって対抗せねばならない。第一には、文化のコモンズ─言語、コミュニケーションと教育の手段、電気や郵便、交通などの共有インフラ─がある。第二には、外的自然のコモンズ、石油や森林、自然環境そのものがある。そして最後に、内的自然、人類の遺伝生物学的な遺産としてのコモンズがある。このコモンズという概念へのアクセスを通じてのみコミュニズムは蘇生しうる。これらが資本によって囲い込まれるとき、我々は皆自らの実体から排除されたプロレタリアートとなる。
  • 排除されたものたちへの参照を通じてのみコミュニズムは正当化されうる。環境は「持続的発展」の問題へ、知的財産は「難しい法的チャレンジ」へ、遺伝子工学は「倫理問題」へと変質させられる。これでは、カント的な意味で「私的な」関心のみがあるだけで、普遍性には到達することができない。スターバックスは「フェア・トレード」のコーヒーを売るが、彼らは反組合運動も起こしているのである。つまり、「包摂されたものと排除されたものの対立を見つめなければ、我々は、ビル・ゲイツが貧困や病気と闘う最大の博愛主義者であり、ルパート・マードックがメディアを通じて何億人もの人々を動員する最も偉大な環境主義者であるような世界に住むことになる」。
  • ランシエールの言う「取るに足らない人々」、社会的身体の「なんの部分でもないもの part of no part」たち、社会の「指摘な」ヒエラルヒーの中で決定的な場所を持たない人々こそが真に普遍的なのである。マルクスのコミュニズムもまた、排除されたものが政治へと参与するという事が確信にあり、それこそがデモクラシーなのである。
  • 現在のリベラル・デモクラシーは、排除されたものを「マイノリティの声」として包摂し回収するという方策をとるが、ここでは排除されたものにおける普遍性は失われている。新しい解放の政治は、もはや、ある特定の社会的行為者によるものではなく、様々な行為者の爆発的なコンビネーションとなる。「我々は全てを失う危険に直面している」。「あらゆる象徴的内容を抜き取られた、抽象的で空虚なデカルト的主体に還元される」という危機、環境破壊・遺伝子操作・文化の抹消という危機。我々はここで皆「実体のない主体」、プロレタリアートとなる。もはや全ての人が排除されており、全ての人がホモ・サケルとなる可能性を秘めているのである。それを避けるためには、行動しなければならない。

コメント

  • 所謂 “Good Lenin and Bad Stalin” という構図を脱し切れていないのではないか。いまレーニニズムを強調することにどれほどの意味があるのか。
  • いつものジジェク節…行動せよ。だが、いかにして?
  • もう少し考える。

ロンドン、パリ、ローマ

水無月に入ってブログの更新が滞っているのは、ヨーロッパを旅行しているからである。試験も無事に終わり天若とヨーロッパぶらり旅を続けている。今のところ、ロンドンとパリをぶらぶらと歩き回った。長岩はデジカメを持っていないが、天若はパチリパチリと風景をメモリに納めていた。だが、彼はパソコンを持ち歩いていないので取り込むことができない。どちらにしても片手落ちである。

美術的センスというものが全く無い上に建築についても興味がないので、はっきり言ってヨーロッパを旅行することは余り楽しくない。建造物は天井が高く首が疲れることが多い。歩くのは石畳ばかりで足の裏が痛くなる。イギリス人は声が大きく人の迷惑を考えない。イギリス料理(笑)は料理と呼べる代物ではない。この地に食文化が成立しなかったのはいかなる所以があるのだろう。悪口ばかり言っている気がするが、良いところもある。今回の旅行で一番興奮したのはロンドンは南ケンシントンの英国自然史博物館である。ロンドンは博物館が入場無料で、ここ自然史博物館だけでなく大英博物館も一度行ったことがあるにも関わらず楽しめた。現在、ギリシャとパルテノン神殿関連の所蔵品が返却されるべきかを巡って争っているとのこと。イギリスの言い分は、「放っておけば朽ちていくものを我々が保存しているのだから、むしろ感謝すべきである」。彼らの知識に対する欲望は見習わなければならないだろう。フーコーは好きでは無さそうなタイプの知であるが。

パリはロンドンよりはもう少し人も街も湿気があり過ごしやすかった。料理も酒も、女性の美しさもイギリスに勝る。出会ったイギリス人は金を出せばイギリスでも良いものが食えると称していたが、イギリス人の舌は破壊されているので信用できぬ。少なくとも伝統的なイギリス料理はフランス料理の足元にも及ばぬ代物であることは間違いない。残念なのは博物館が随分と高額で、ルーヴル博物館は6時以降入場で安くなってから入ったにも関わらず一人6ユーロという暴挙である。こればかりは大英博物館を見習うべきだ。フランス人に衛生観念を期待するのは間違いだと理解しつつも、やはり街に清潔感が無いのは残念だった。糞尿が垂れ流しになっていた中世と比べればましになったのだろう。

これからローマ、フィレンツェへ向かう。イタリアは治安は悪いが料理と酒はうまいと聞く。夜で歩くのも趣味ではないのでさしあたり天気と料理が良ければ満足である。楽しみだ。

イラン大統領選挙は仕組まれたか

イランの大統領選挙は現職のアフマディネジャド氏が再選を果たしたという事だ。しかし、Informed Comment: Stealing the Iranian Election ではこの選挙結果に疑問を呈している。選挙結果と事前のアンケート調査の結果が食い違いすぎているというのである。

  1. アフマディネジャドはタブリーズで57%の票を獲得したことになっているが、彼の主要な的であるミル・ホサイン・ムーサビーはタブリーズが州都である東アーザルバーイジャーン出身であり、この地域では明らかにアフマディネジャドよりも勝っていた。この地域では、以前から地元出身の候補が大量の票を獲得している。
  2. テヘランでもアフマディネジャドは50%以上の票を獲得したことになっているが、彼は都市部では人気がない。彼の政策がインフレや高い失業率をもたらしたため、貧困層にも不人気である。テヘランでこの数字が出ることはおかしい。
  3. 改革派であるメフディー・キャッルービーは32万票を獲得し、ロレスターンなど西部で敗北したと言うことになっている。しかし、彼はロレスターン出身でありクルディスタンを含む西部地域では非常に人気がある。キャッルービーは2005年の大統領選挙の第1ラウンドで17%の票を獲得している。それ以来支持が減ったということを考えられるが、1%以下の支持しか得ていないと言うことはあり得ない。少なくとも西部ではもっと健闘したはずである。
  4. モフサン・レザイはアンケートでは全く人気がなかったが、67万票とキャッルービーの2倍以上得票している。
  5. アフマディネジャドはイランの全ての地域でほぼ同じくらい支持を得たことになっているが、今までの選挙では民族的及び地域的な変動が大きく見られた。
  6. 選挙委員会は選挙結果を公認するのに三日待ち、その後ハメネイに連絡、署名を得ることになっている。これは何らかの間違いがあった場合の是正のためであるが、今回はすぐにハメネイによる公認がなされた。

個人的に選挙結果を眺めたわけではないので何とも言えないが、これだけ見れば選挙結果に何らかの圧力がかかったという事は大いに有り得、公明正大な選挙が行われていない国家ということになる。これからの米国の対イラン政策などにも影響があるのだろうか。

オバマに対する反応 2

Leiter Reports: A Philosophy Blog: Obama’s Cairo Speech.

  • ニューヨークタイムズより。オバマが犯したミスは二つ。まず第一に、イラクについて謝罪を行っておらず、アメリカによる侵攻を批判する立場を明確にする代わりに、2003年よりもイラクがよい場所になったというあの馬鹿らしい主張を行った。第二に、パレスチナによる暴力を一方的に非難し、親イスラエル的立場を表明した。素晴らしいプレゼンテーションだが、内容は空虚で、尊敬よりも政策が必要だと言うことを理解していない。

JCRT Live: Obama’s Cairo speech – “new beginning”, new Enlightenment, or old aporia?.

  • オバマは観衆に迎合することも、アメリカの歴史について謝罪することもなかった。このレトリックの全ては戦略的にデザインされており、アメリカの古典的な外交政策を肯定しつつ虚勢や卑屈をうまく排除している。ロサンゼルスタイムズは、「オバマのスタイルは、クリントンとブッシュ時代の古い争いから抜け出し、新しいプラグマティズムと妥協の政治を示唆している」と要約した。しかし、それよりも大きなビジョンをオバマは保持している。
  • オバマの新しい始まりは、ヨーロッパ的啓蒙の原則を強調しながら、ムスリムたちをこの光り輝くエピステーメーのもとに誘い出すというものだ。勿論彼はカントを引用することなど無かったが、「宗教無き宗教」としての啓蒙を提示している。つまり彼は、西洋に対しても今迄の「ポストモダニズム」を破棄し、もう一度ヨーロッパ的な世界秩序を打ち出すことを要求しているのだ。
  • しかし、そのようなカント的なプロジェクトによって超えることができるほど、今日の「文明の衝突」は甘くない。それは1683年9月11日、西洋の軍隊とオスマン帝国との間に発生したウィーンでの戦いに端を発しているのだ。それは、カントの理性に基づいた「普遍主義的コスモポリタニズム」によって解決できるものではない。ここにはアポリアが存在するのだ。
  • デリダはカントが思考を終えた場所から出発する。カント的な啓蒙は、終末論的な思考のもとに理性的な普遍国家を全ての人々にもたらそうとしたが、デリダはこのような弁証法的な歴史の解決は不可能だという。啓蒙とは、18世紀的な「宗教」の概念のように、ギリシャ=ローマ的伝統のもとに成立している。それはまた、植民地主義、そして「globo-latinization 世界的ラテン化」を正当化したツールでもあった。宗教はそのようなラテン世界的なものではなく、ナンシー的な共生 mitsein の「世界」なのである。

オバマに対する反応 1

自分がチェックした範囲で、見かけたブログにおけるオバマのエジプト演説に対する反応を全体的にまとめます。学者のブログが多いです。さしあたり二つ。

Good for Obama – Jacob T. Levy.

  • 全体的にはよいスピーチであるが、9/11 をアメリカに対する局所的な攻撃とアフガニスタンに対する局所的な反撃の構図にしてしまうのはどうなのか。他の国でも様々なテロ行為があったし、イスラーム圏国内でもそれは起こっている。様々な箇所での攻撃に言及することは必ずしも文明の衝突の示唆にはならない。

French Politics: Political Rhetoric.

  • ディックの娘であるリズ・チェイニーは、オバマのスピーチについて「彼の個人史はアメリカが 機会均等の国であるという明確なメッセージを送った」と賞賛する一方で「イランが世界最大のテロリスト国家であるという事実を注視せず、倫理的相対主義に陥っている」と批判した。しかし、オバマは自らの個人史ではなく、アメリカにおける黒人差別の歴史に基づいてどのような対応が実を結んだのかという一般化を行っている。なにより彼はアメリカの間違いを率直に検討し、理性的な省察を行っている。これは倫理的相対主義ではない。

オバマ、エジプトにて

米大統領オバマがエジプトのカイロにて歴史的演説を行いました。イスラームとの対話、宗教的寛容を呼びかける一方で、アメリカの主張、立場を強く打ち出したものです。必見。

§ 要約

まず、イスラームとアメリカ(西側)とのこれまでの関係、「一面では共生と協力、一面では宗教戦争」について述べた上で、これからは新たな関係を模索していかなければならないという指摘を行います。「変革は一夜にしては起こらないが、対話の努力は続けなければならない」。

続くのは、イスラームは歴史上、人間にとって重要な役割を演じてきた、という事実の強調です。文明にとって様々な利益をもたらしただけではなく、宗教的寛容や人種的平等といった概念も発明した。アメリカを最初に認知したのはモロッコであるし、トリポリ条約においてジョン・アダムスは「アメリカはムスリムの宗教や平穏、法と全く対立していない」と著している。アメリカの大統領として、私はイスラームに対する悪意あるステレオタイプと闘わねばならない、とオバマはいいます。

しかし、ムスリムもまたアメリカに対してそうでなければならない。アメリカは宗教の自由を重視してきたし、自己の利益のみを追求する帝国ではない。我々は帝国との戦争、革命から出発したのだ。バラク・フセイン・オバマという名の男が大統領になれる、という事実がこれを表している。アメリカは平和、安全、教育、仕事、家族、共同体、神といった理念を信じる。そして、これは人類全ての希望でもある。容易ではないが、我々は「人類」という立脚点に立つことを学ばなければならない。これは21世紀の人類に科せられた責任である。

§1. 暴力的過激派について

我々はいかなる形態の暴力的過激派(violent extremism)にも対抗しなければならない。

アンカラでは、アメリカとイスラームは戦争などしないし、これからも起きえないとしたが、我々の安全保障に対する危険としての暴力的過激派に対しては力強く対処する。アフガニスタンの情況はこれを示している。アメリカは決してアフガニスタンに居ることを選択したわけではない。アフガニスタンで、そしてパキスタンで、暴力的過激派が存在しないということになればアメリカは撤退するが、事実上そうではない。

一方で、イラクは異なった状況にある。アメリカにとってイラク侵攻は選択の結果だった。我々が今できることは、イラクにとって良い将来を確保し、イラクをイラク人に譲るということだ。だから私は2012年までにイラクから米軍を撤退させることを選んだ。アメリカはネーションの主権や法の支配を守る。我々はムスリムの共同体とのパートナーシップの基に我々の安全保障を進めていきたい。

§2. イスラエル、パレスチナ、アラブの情況。

アメリカとイスラエルとの絆は壊れない。ユダヤ人はナチス時代を含め長いこと迫害されてきたし、約束の地へ戻りたいという望みは理解できるものだ。しかし、パレスチナの人々にとっても、自らの故郷を取り戻したいという望みはあって当然だ。現在のパレスチナの人々にとっての情況は耐え難いものだ。アメリカは、パレスチナの人々による正統的な国家、機会、尊厳への希求を理解する。

イスラエル、パレスチナ、アメリカ、そして世界は共通の利害の基に団結できる。どちらか一方の視線で物事を見るのではなく、お互いを理解し、平和と安定のもとで双方が生きることのできる、二国家体制を選択するべきだ。ハマースはパレスチナ人の支持を得ているが、その責任も重い。彼らはパレスチナ人の望みを実現し、パレスチナ人を統一して、暴力を終わらせ、過去の合意を認識して、イスラエルの権利も尊重するべきだ。

§3. 核について

特に現在、アメリカとイランの間で核の問題が重要になってきている。どんな国も核は持つべきではない。イランを含め、どのような国も、NPTに準拠した上で平和的に原子力発電を行う権利を持っている。これがこの条約のコアであり、目的だ。この地域の人々もこの目的に従うことを願っている。

§4. 民主主義について

民主主義の推進に関する議論が行われている。どんな国によっても、他国に対して政府の形態を押しつけられるべきではない。しかし、これは人民の意志が政府に反映されるべきだという信念を変えることはない。様々な国には、様々なやり方がある。アメリカは、自分が全ての人々にとって何がよいか知っているかのようなふりはしない。しかし、政府形態に関する発言の自由や、法の支配、正義の平等、透明性の高い政府、人民の搾取の不在、自分が思うように生きる自由などは存在すべきだ。これらはアメリカ的なものだけではなく、普遍的な人権だ。これらの権利を保護する政府はより強固だ。

§5. 信教の自由について

イスラームには長い寛容の伝統がある。信教の自由は、共に生きることにとって非常に重要だ。西洋諸国はムスリム市民が宗教を自由に行うことを制限するべきではない。

§6. 女性の権利について

女性が髪を隠しているからといって不平等だとは思わないが、教育を受ける機会がないのはおかしい。伝統に従って生きる女性たちがいても良いが、それは自らの選択によるべきだ。だから、女性の識字率は高めるべきだし、仕事も与えるべきだ。

§7. 経済発展と機会(opportunity)について

グローバリゼーションは良いことも悪いことももたらす。モダニティが我々のアイデンティティやコミュニティを壊すという恐怖は確かにあるが、進歩を否定することもできない。教育は推進するべきだし、経済発展も必要だ。科学や技術についても、ムスリムが多数を占める国々において新しい技術発展のためのファンドを提供する。パートナーシップに基づいて、内発的な発展が必要だ。多くの人々はこの始まりに疑問を寄せているが、過去に囚われていては未来をつくることはできない。

最後に、コーラン、タルムード、そして聖書を引用してスピーチは終わります。

§ 感想

矢張りオバマの演説の力、そしてこの男を大統領に選出するアメリカという国の底力には舌を巻く、という事ははっきりと感じました。そこは素直に感服しても良い。日本にこれだけの演説をぶてる政治家が居るだろうか。アメリカになれというわけではありませんが、オバマの政治家としての器の大きさは認めざるを得ません。

批判することはいくらでも可能ですが、アメリカの大統領という立場上の制約がありながらも、ここまでブッシュ政権とは決別した姿勢を提示したという事をまずは認識し、賞賛したい。オバマは演説中一度もテロリストという言葉を使いませんでした。代わりに使ったのは「暴力的過激派」violent extremistという言葉で、その批判の対象が暴力にあるという事を明確に打ち出しています。これは、多様な解釈が可能なテロリストという概念からの大きな離脱の一歩だと感じています。

政治とは、まず、現状をしっかりと見据えた上で、あるものからスタートし、そこから一歩ずつ理念に近づいていくというプロセスなのだと感じています。現状を批判することは簡単です。しかし変革することは難しい。そういう意味で、少しでも良い方向へ持っていくというビジョンを示しながら、アメリカという国のソフト・パワーを高めていくというアクロバティックな作業をやってのけるオバマ政権には、その外交力に驚嘆するという他ない。

批判は常にしなければなりません。イスラエルとの関係、イラク戦争の取り扱いについてや、普遍的な理念とは結局のところアメリカの理念に過ぎないではないか、偽善だ、という批判は妥当です。確かにその通りです。オバマはなによりもまずアメリカの大統領なのであって、その国益を第一に考えて動くに決まっている。それはアメリカが理念的にも物理的にも覇権をいかに握り続けるかというシナリオに基づいているでしょう。しかし、そのようなレアルポリティークの視線に立つなら、なおさら単なる批判にとどまるのではなく、ならば自国はどうするのか、どのような外交戦略を持っているのか、という視点が、リアリストたるその批判者には要求されるはずです。そして、パレスチナの側からオバマを批判するのならば、一方でその対話に応ずる姿勢も確保しておかなければならない。なかなかオバマに敵対的姿勢を取ることは難しい。

「原理原則の話はいい、実際の政策が問題だ」と言う事はできますが、政治におけるレトリックの重要性を考慮すれば、そのような批判は妥当せず、寧ろここでぶち上げられた原則に基づいた政策なのかという事が批判の対象になるべきだと思います。

天若が加わりました

by

天若と言います。主に日本史についてブログ記事を書くことを長岩に依頼されました。

天若という名前は日本書紀に出てくる天稚彦(アメワカヒコ)にちなんでいます。天稚彦は賀茂氏一族であり、その子孫が葛城氏です。僕自身葛城氏に連なる家系の者ですので天若という名を使うことにしました。天稚彦についてはまたおいおい書くことになると思います。

日本書紀においては天の神と地の神が存在します。天稚彦は天照など天の側から地の国を平定するように依頼され地に降り立つのですが、女(シタテルヒメ)にうつつを抜かして仕事をしません。しびれを切らした天照はキジを派遣しましたが、天稚彦は天まで届く矢を放ってキジを殺してしまいます。しかし、天照はこの矢を地に投げ返して天稚彦を殺し返す、という顛末です。この先が面白いのですが今日はこの辺で。