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土蜘蛛

by on 2009/06/22

 どうも、天若です。
 今日は土蜘蛛というものについて記述してみたい。

 かつて葛城氏という豪族の支配した<葛城>という地域には数多くの土蜘蛛伝説が残っている。葛城とは、奈良県北西部にあたる場所である。南から金剛山、葛城山、二上山と並ぶが、その麓に位置する地域だ。

 土蜘蛛というのは、神代もしくはそれ以前の時代より日本に住まう原住民的存在であった。民間伝承のみにとどまらず、『日本書紀』などにも登場する。
 神武天皇の時代、身丈が低くて手足が長い土蜘蛛と呼ばれる氏族がいたが、天皇の軍は葛でつくった網を使い、彼らを征伐したという。これが葛城の語源であるという説もある。

 神武天皇は葛城と呼んだ地を征伐してからより東へ征き、「皇天(あまつかみ)の威(いきおい)を以てして、凶徒(あた) 就戮(ころ)されぬ。八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)むこと、亦可からずや。」とのたまい、橿原に都を定めた。
 こうして日本と呼ばれる皇国(すめらみくに)が始まったのである。

 今回とりあげた葛城以外でも、全国的に原住民的存在は確認されている。『日本書紀』、『古事記』、各国の『風土記』などを参照いただきたい。
 土蜘蛛というのは一般称だったようで、彼らには長髄彦や大耳や鹿臣や猪祝など、体型の異形さをあらわす身体の特徴をあらわした名や動物に因んだ名が与えられている場合が多い。(この流れは蘇我氏の馬子や入鹿や蝦夷など天皇に刃向かったものたちに共通するものである。)
 以上の歴史書は、現代まで日本を支配している天皇家による原住民征伐の記録である。おそらく、彼らは大陸より日本にやってきた人々の一族に過ぎなかった。
 十五年戦争の際、「八紘一宇」や「おしてやまん」、「うちてしやまん」などとスローガンが掲げられたが、これらの言葉は『日本書紀』からの援用であり、原住民討伐のための言葉であった。

 いくつか土蜘蛛に関する史跡を紹介しよう。

 天孫降臨つまり高天原の地と伝わる、御所の高天(たかま)にある<高天彦神社>から五分ほど東へ歩いたところに、鬱蒼と茂る森の中に<蜘蛛窟>と呼ばれる穴がある。正確には大岩であるが。
 その穴は、土蜘蛛がかつて居住したとされる洞穴で、征伐の際に土蜘蛛が中にいるまま穴を大岩で塞いだと言われている。その岩を退かすことは今でも禁忌とされている。
 彼ら土蜘蛛が縄文人的生活をしていたことを実証する遺跡である可能性が高い。

 そしてもう一つ、<葛城一言主神社>という神社。『日本書紀』と『古事記』では記述が異なるが雄略天皇が葛城山中で出会った神が祀られている。(雄略天皇とこの神について記述すると大きな脱線が予測されるので、別途記したい。)
 この神社の本殿、拝殿、鳥居の柱の下に三つの石があるが、それが<土蜘蛛塚>である。
 征伐した土蜘蛛を頭、胴、足というように三つに切断し、各々祀ったという。 現在でも一言主神社では、ネコメシ(鰹節を混ぜた白米)と呼ばれるご供物を土蜘蛛塚に供えることで鎮めの儀式が行なわれている。
 供えるというよりは、塚の上にぶちまけるといった方が正しい、と神主に説明を受けた。私自身、その儀式は未見である。

 中世においては、謡曲「土蜘蛛」や「土蜘蛛草紙」などの文化面に土蜘蛛は朝廷を転覆させんとする妖怪として描かれている。それは既に人の形をとどめていない。それを源頼光が退治するという内容である。
 能や歌舞伎の演目としても古くより扱われてきた。

 

 葛城氏、ひいてはそれと関連があるとされているカモ(賀茂或は鴨など)氏と土蜘蛛との関係性は強いものだと私は考えている。新井白石や本居宣長らも土蜘蛛について研究しており、天つ神(天皇家:天皇の勢力)に対立していた土神、国つ神などと同一であった可能性を考察している。

 土蜘蛛たちは、「天皇さえも平伏させた神々」、「異形の化け物」、「まつろはぬもの」などと呼ばれることもあったが、最終的には抵抗して死していく者と天皇のしろしめす民の一員に同化していく者の二つに別れ、彼ら土蜘蛛は存在しないものとなった。

 日本というものを考える際に、土蜘蛛は忘れてはいけない存在である。万世一系の、さも当然のように日本に居座り続ける天皇の正統性に「揺らぎ」を与えるものではないだろうか。早計かもしれぬが、非常におもしろい可能性をもった存在である。どこか共鳴するものが私の心中にはある。

 そしてまた、葛城という地は修験道にとっても重要な地である。なぜかといえば、修験道の開祖、役小角が生まれ、修行を積んだ地であるからである。彼もまた朝廷に反逆した存在として処罰を受けているのである。
 修験道に関しても追って記したい。

 なお、私が記述する際に参考にしているのは、特記しないかぎり、自身がまとめておいた『志書』である。
 そして、その『志書』は、実際に寺社仏閣遺跡遺構を逡巡した際に見聞した案内図・説明版や神主・住職・案内人などの話をまとめたものである。

 訂正箇所や誤りなどがあったならば随時コメントをいただければ幸いである。

「我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、
土蜘の精魂なり。
此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、
我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、
疾くに魔界となさんもの。」
歌舞伎・土蜘より

「汝知らずや、我れ昔、
葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。
なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、
却って命を絶たんとや。」
能・土蜘蛛より

From → Memo

2 Comments
  1. 長岩 permalink

    神話における土蜘蛛の存在はおもしろい。これって、現在的な意味での「原住民」として扱えるのだろうか。体型が異様なものとして描かれているのは神話的論理の要請なのだろうか。

    • 天若 permalink

      神話論的論理の産物だと思われます。

      後世の蘇我氏(蝦夷、馬子、入鹿など)たちの動物に由来する賤称のような「名」は逆臣としての存在のために与えられているけれど、それと同様かと。

      昭和中期まで存在していたサンカという原住民的生活を山中で営んでいた人々と土蜘蛛の関係性は目下研究中だけれど、無関係とはいいきれないでしょう。

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