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はじめからはじめる ─ ジジェク

by on 2009/06/14

New Left Review 57 にスラヴォイ・ジジェクによる論文 “How to begin from the beginning” が載っており、楽しく読んだのでまとめ。どうでもいいけど、ジジェクはフランスの Contretemps にもほぼ同じ内容の論文を書いてました。別タイトルで。おぬしも悪よのう。完全に同じ内容ではないから良いんだけどさ。邦訳はもうされているようだ。凄いな。早い。勉強メモ程度のまとめのみ残す。

まとめ

  • 話は1922年のロシア内戦終結後、新経済政策 NEP を採用する際にレーニンが書いた “あるパブリシストの覚書 Notes of a publicist” である。そこでレーニンは、「幻想や落胆に惑わされず、力と柔軟性をもって何度でも最も困難な目標へ向けて’一から始める’事のできるコミュニスト」であることを強調する。途中からではなく、何度も最初から、一から始めなければならない。
  • レーニンのテロルとスターリンの全体主義は、レーニンが「沈黙する自由」を奪わなかったという点で大きく違う。政治的闘争の場から降りた敵にレーニンは銃を向けなかったが、スターリンの体制下では党の思うとおりの主張をすることを余儀なくされた。レーニンに於いて社会は人間たちの闘争の場であったが、スターリンにとって敵は人間ではなく、社会はそれから除外された虫けらと対立していた。この変化は、レーニンの理論に一つの社会的な行為者としての国家が存在しなかったことに起因している。レーニンは自らの鬼子と闘うこととなるが、その過去の過ちを矯正するためには既に遅かったのだ。
  • 共産主義は今、ソビエトの廃墟から始めるのではなく、また最初から始めなければならない。革命は持続的なプロセスではなく、何度も何度も立ち上がる断続的な運動である。Western Marxism にとって、最大の問題は革命主体としてのプロレタリアートの不在であり、精神分析によって階級意識の発展を阻害する無意識的な欲望のメカニズムを暴いたり、第三世界や学生、知識人など別の革命主体を求めようとしてきた。しかし、それは自らの怠惰を正当化するだけのものではなかったか。
  • フクヤマ的な論調を嘲ることは簡単だが、いま、多くはフクヤマ主義者である。人々は、自由民主主義的資本主義が結局のところ最良の社会であり、それをより公正なものにすることに心血を注いでいる。しかし、これが真ならば、アラン・バディウのように共産主義仮説 communist hypothesis を強調する意味はなんなのか?
  • 共産主義仮説を要請する歴史的現実における対立 antagonism は確かに存在する。本当の問題は一つしかない。『グローバル資本主義はその無限の再生産を防ぐほど強い対立を内包するのか』。答えはイエスであり、それは社会的アパルトヘイトの新しい形、包摂されるものと排除されるものの対立である。他の対立─環境破壊、知的財産と私有財産の対立性、遺伝子操作のような新技術に関連する倫理的問題─は重要ではあるが、先に挙げたものとはそのコモンズとの関わりに於いて異質のものである。
  • コモンズとはその私有化自体が暴力的行為であるような共有の何かである。私有化が断行されるようならば、それは必要ならば暴力でもって対抗せねばならない。第一には、文化のコモンズ─言語、コミュニケーションと教育の手段、電気や郵便、交通などの共有インフラ─がある。第二には、外的自然のコモンズ、石油や森林、自然環境そのものがある。そして最後に、内的自然、人類の遺伝生物学的な遺産としてのコモンズがある。このコモンズという概念へのアクセスを通じてのみコミュニズムは蘇生しうる。これらが資本によって囲い込まれるとき、我々は皆自らの実体から排除されたプロレタリアートとなる。
  • 排除されたものたちへの参照を通じてのみコミュニズムは正当化されうる。環境は「持続的発展」の問題へ、知的財産は「難しい法的チャレンジ」へ、遺伝子工学は「倫理問題」へと変質させられる。これでは、カント的な意味で「私的な」関心のみがあるだけで、普遍性には到達することができない。スターバックスは「フェア・トレード」のコーヒーを売るが、彼らは反組合運動も起こしているのである。つまり、「包摂されたものと排除されたものの対立を見つめなければ、我々は、ビル・ゲイツが貧困や病気と闘う最大の博愛主義者であり、ルパート・マードックがメディアを通じて何億人もの人々を動員する最も偉大な環境主義者であるような世界に住むことになる」。
  • ランシエールの言う「取るに足らない人々」、社会的身体の「なんの部分でもないもの part of no part」たち、社会の「指摘な」ヒエラルヒーの中で決定的な場所を持たない人々こそが真に普遍的なのである。マルクスのコミュニズムもまた、排除されたものが政治へと参与するという事が確信にあり、それこそがデモクラシーなのである。
  • 現在のリベラル・デモクラシーは、排除されたものを「マイノリティの声」として包摂し回収するという方策をとるが、ここでは排除されたものにおける普遍性は失われている。新しい解放の政治は、もはや、ある特定の社会的行為者によるものではなく、様々な行為者の爆発的なコンビネーションとなる。「我々は全てを失う危険に直面している」。「あらゆる象徴的内容を抜き取られた、抽象的で空虚なデカルト的主体に還元される」という危機、環境破壊・遺伝子操作・文化の抹消という危機。我々はここで皆「実体のない主体」、プロレタリアートとなる。もはや全ての人が排除されており、全ての人がホモ・サケルとなる可能性を秘めているのである。それを避けるためには、行動しなければならない。

コメント

  • 所謂 “Good Lenin and Bad Stalin” という構図を脱し切れていないのではないか。いまレーニニズムを強調することにどれほどの意味があるのか。
  • いつものジジェク節…行動せよ。だが、いかにして?
  • もう少し考える。
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From → Memo

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